書評:伊藤修一郎『政策実施の組織とガバナンス』

1.       本書の概略

 行政の研究の中で,広く深い分析を要し,ゆえに難しいものの一つが,政策執行・実施研究である.深いとは,行政機構の内部に分け入ってその意思決定を掘り下げる必要があるということである.広いとは,政策の受け手を含めた分析が必要だということである.ゆえに,行政が最も行政らしいところであるにもかかわらず,実施を扱う研究は少ない.しかし,その難しさを乗り越えた研究は,いずれも面白い.中でも本書はその極北だ.執行研究の多くは,ターゲットを絞ることで上述の難点を乗り越える.ところが本書は,分析のあらゆる難所に立ち向かう.学術的な理論,実証研究でありながら,その筆捌きには,謎解きのストーリーを読むような興奮を覚える.

 本書が対象とするのは,屋外広告物政策である.その政策実施を担う自治体の行政組織とそれに影響を与える要因を解明していく.主たる問いは,なぜ違反が多いのか,言い換えると,なぜ実施に失敗するのかである.規制がほぼ守られているという自治体は約半分であり,守らない事業者の方が多いという自治体が三割に上る.

 何がこの違いを生み出すのか.自治体の行政組織を見れば,失敗も不思議ではない.人手が足りず,専門性もないからである.したがって,成功する要因は行政組織の外から与えられる.一つは,実施手段や人員といったリソースが与えられることである.もう一つは議会であり,議会が関心を持ち,関与するようになれば,取り締まりは強化され,違反を抑えることにつながる.

 ただし,取り締まりと違反の程度は,単純な直線関係にはない.一方では取り締まりがなくとも自ら規制を遵守する業者もある.他方では,他の業者が守っていないのに自分だけが守って損をしたくないと考える業者も多い.したがって,取り締まりの強化が常に一定の違反者の減少をもたらすのではなく,ある程度以上に強めて初めて違反者が減るといった関係が見いだされる.

2.       優れた点

 本書の優れた点は数多いが,ここでは三点をあげておこう.

 第一に,問いそのものは明確だが,答えを出すのは難しい問いを立てた上で,それに納得のいく答えを示している.答えるに値する問いを立てた上でそれを解くことは,研究の基本だが,同時に難しいところでもある.それを見事に成し遂げている.

 本書の問いは,なぜ屋外広告物規制が実行力を持っているところもあれば,そうでないところもあるのかである.つまり,自治体による違いを問う.しかも,半分程度は成功しつつも,失敗の程度も相当に大きいという,二つの山がある分布を説明することが課題となる.これは難しい問いである.

 したがって,その答えもまた,単純ではあり得ない.政策が失敗するのは,行政の努力不足のせいだろうというのが,世間一般に流布する見方であろう.しかしそうした単純な理解では,事実を捉え損ねてしまう.本書は,行政組織がなぜ十分に実施を行えないのかを,組織の人(職員がどのような形で部署に配属されるか),権限(実施手段),金銭(除去活動を委託により行うための費用),情報(規制対象となる広告物の把握)といったリソースに分けながら丁寧に見ていく.さらに,違反状態は,広告物の設置を行う事業者が,行政の働きかけに対してどのような応答を見せるかに拠る.つまり,一方では行政組織の中を掘り下げ,他方では,行政組織とその相手方との関係に視野を広げることで答えを導いていく.冒頭に述べた謎解きのストーリーは,こうした堅強な構成に支えられている.

 第二に,個別事例の実態を詳細に描き出すことと,全体的な傾向をとらえることの双方を高度な水準で行っている.優れたカメラで望遠から接写まで,自由に倍率を上げ下げして物事を見るようなものである.

 事例として取り上げられるのは,いずれも積極的な政策実施を行った自治体である.一つは,県内各市が県の主導の下,協力して,積極的な取り締まりを行っている静岡県,二つ目は100人を超える人員を投入するローラー作戦により,全域的な取り締まりを行った京都市,三つ目は,専門家の大きな関与を得つつ,撤去費用の補助などを含め実効的な手段を複数用いていく宮崎市や金沢市の事例である.

 これらの事例はいずれも,ある意味では逸脱事例といえる.富士山,古都としての街並み,南国らしい沿道といった,いずれも観光資源として重要な景観を有している.観光産業が大きな存在となっており,一般市民の景観保持への理解も他に比して高い.しかし,観光資源があるところだからこそ,広告を出したいという欲求も強くなる.実際,これらの自治体いずれもが,過去には景観を損ねる屋外広告物を多く抱えてきた.成功した後から見れば成功は当然のように思えるかも知れない.しかしそれは当たり前のことではなく,景観を守るための活動があって初めて可能になることだ.

 いずれの事例においても,違反是正のためにいかなる手段をとっているか,それはどの時期からか,その変化をもたらした要因は何かといった点を筆者は調べていく.とりわけ,変化の契機を遡るところには,事例分析らしい過程追跡の強みが発揮されている.たとえば,組織リソースの配分を決めているのは首長だが,その判断の背景には,議会からの圧力があることが示されている.これらの事例研究は,計量分析に先行する章におかれている.事例研究の重要な役割の一つが仮説導出であるが,本書の構成もそれに沿っている.

 事例研究から導き出された成功要因を,一般化した形で確かめるのは計量分析である.従属変数となるのは,違反割合である.政策実施の活動に対して,広告業者の応答が加わった結果,違反が生じるか否かは決まる.このように社会経済の主体の行動も含むという意味で,政策のアウトカム(効果)を分析の対象とする.独立変数として,まず考えられるのは実施活動とリソースの配分である.さらにこれらに対する行政組織の外の関与者からの影響が考えられる.このように連鎖した因果関係を想定するため,パス解析が用いられる.

 分析結果によれば,違反割合を説明するのは,まず,職員数,取り締まりの強度,ベテラン職員の割合である.そして,職員数を増やすことに寄与するのは,行政活動のニーズの高さ(新規許可件数)の他,議会での質問が多いことである.取り締まり強度は,職員が違反への対応に多くの時間を当てるほど,また利用可能な実施手段が多いほど,強まる傾向にある.さらに,職員の時間の割り当てに影響するのも,議会の関与である.これらの結果は,事例研究での知見が一般化されることを示す.

 本書の第三の優れた点は,社会・経済の側,すなわち規制の対象者である広告業者,さらには一般市民を,理論と実証の双方から取り上げているところである.政策実施の焦点の一つが社会・経済と行政の相互作用にあることは,これまでも多く指摘されてきた.しかしそのことを実際の研究で生かしたものは海外の研究を含めても数少ない.

 社会・経済側の分析は二段構えである.すなわち,まずは事業者の行動を経済的合理性に基づいて説明する.その上で,事業者もまた社会的な存在であることを踏まえ,規制がどのように市民に受け入れられているかに視野を広げる.

 事業者の経済的合理性に関する分析は,行政との相互作用をゲーム理論によって明らかにすることから始まる.行政にとっての目標は遵守の実現であり,取り締まりはあくまで手段であるから,遵守状況に応じて取り締まりの程度を変えてくる.業者の側には,順法精神に満ちたものもいれば,周りも皆従うならば自分も従うという日和見的なものもいる.そして業者がどのタイプか行政にはわからないという情報の非対称性が存在する.こうした状況の下で,理論の予測としては,取り締まりがなくとも規制が遵守される均衡が成立する一方,違反の取り締まりを強めても違反がしばらくは減らず,ある程度以上の取り締まりとなったときに初めて遵守が見られるようといった非線形的な関係が導かれる.

 さらに,事業者は社会的に埋め込まれた存在であり,社会的に是認されないならば,景観を損ね続けることはできない.そこで一般市民の意識を,実際にアンケート調査で探ると,その方向性は定まらず曖昧であることがわかる.景観か経済かといわれれば,経済をとるものが26%いるが,公共利益と所有権の自由というフレームを与えれば,後者を好むものは,17%に止まる.他方,景観と多くの人の利便性を天秤にかけると,後者を選ぶ人は3割を超える.屋外広告物規制への人々の支持は,何と対比されるかによって変化する不安定なものである.

 このように,屋外広告物の事業者や,一般市民をも対象としたアンケート調査を実施することには,費用も労力も必要であり,その実施は容易ではない.ゲーム理論に基づく理論的検討も含め,一人の研究者がこれだけ広くカバーするのは極めて困難なことである.

3.       更なる疑問

 このように賞賛すべき点は多岐に及ぶが,全ての書籍同様,一切の疑問を生じさせないわけではない.むしろ,優れた書籍であるがゆえに,さまざまな思考を刺激する.ここでは,三つの点を考えてみたい.

 第一に,ここで描かれる職員の姿である.執行研究や第一線職員論が強調するのは,政策実施は裁量を伴い,その裁量は,職員たちの専門家としての価値観などを反映する形で行使されるということであった.ただしそれは主にアメリカの行政組織を対象として,教員やケースワーカーといった職員を対象としてきたことに起因する.

 これに対して本書が描き出すのは,一見,ひたすら消極的な職員たちの姿である.処理期限が定まった非裁量的業務を優先する.専門知識がなく,機械的に基準に基づいた処理をする.違反に対しては,労力があまりかからず,対応したという実績を残せる定期パトロールと行政指導を好む.指導にしたがわない場合,命令・勧告,さらには代執行とより強い手段が用意されているが,それを行使することはほとんどない.違反表示シールすら,シールが無視されれば,次に法的措置を執らざるを得なくなるので,あまり利用されない.

 こうした姿には物足りなさを感じる人も多いだろう.景観という集合財を守ることは価値ある行為であり,公共の福祉に資する必要な規制なのだから,違反者に対して弱腰にならず,必要な処分を課すべきだと.しかし筆者はこうした規範論を差し挟まない.

 とはいえ,その分析枠組みは職員に対して冷ややかと言えなくもない.行政組織がそれ自体,積極的になることはあり得ないので,積極的になるとしたら,行政組織外部にそれを迫られたときに限られるというのだ.行政官が自らの専門性を内面に有することで,自らを規律するということを想定していない.規律付けはすべて外からやってくると見るのである.

 こうした筆者の分析の視点は,日本の屋外広告規制を担う自治体職員の実態を解明する上で,うまく機能している.ただ,同時にそこで当然視されていることに,もう少し光を当てても良いとも思う.何かというと,日本の行政組織は,外部から規律付けを行えば,それに沿って動くということである.だからこそ,外部から働きかけがあれば,成功事例が生まれるのだが,これは決して当たり前のことではない.外部が指示を出してもその通り動かず,抵抗や懈怠を見せる.それが他国の執行研究が明らかにしてきた行政組織の姿である.

 このように日本の行政組織が応答的であることには理由があるはずである.それは,ジェネラリストが行政職員の中心であること,そしてチームで仕事を行っていくという大部屋主義的な,あるいはメンバーシップ型の組織であることであろう.専門性や指揮命令とは別の,同じ職場のメンバーによる相互抑制と,長期的に蓄積される評価に基づく昇進管理が与える仕事へのインセンティブが,日常的な消極性と外部に対する応答性の双方の根底にあるのではないか.この考えると,本書の分析は,アメリカの政策執行研究の対象とは異なる組織における執行の実態を解明するものといえる.

 第二は,議員や首長の政治家としての側面,それらの背景をなす利益集団の活動についてである.本書では,行政組織に対して外部から規律付けを行うガバナンスの一部として議員や首長を扱う.したがって,その議員や首長の行動が何に起因するかは分析の射程外である.それはもちろん,議論が拡散し,散漫になるのを防ぐために必要なことである.

 そのことを認めた上で,なぜ,実施に成功するところでは議員の働きかけがあるのか,また,首長の影響は見いだされないのかという疑問が生じる.景観という集合財を追求するのは,自治体全域から一人が選出されるゆえに,広く薄く集票する必要性の高い首長であり,大選挙区制の下で最低当選ラインが低く,狭く固い利益を代弁する議員ではないと理論的には予測されるからである.こうした選挙制度の特徴に基づく首長と議員の理解とは異なる姿を本書は提示する.この点で,筆者の明示的な意図を超えて,日本の地方政治研究に対する貢献ともなっている.

 ではなぜ,これまでの研究とは異なる側面が現れているのか.一つの可能性は,これが実施だからである.政策の決定と異なり,実施が注目を集めることは少ない.あらゆる政策領域を一人でカバーする首長以上に,議員の方が,実施に目を配れる.実施により社会経済への影響が形をとったとき,議員の中から関心,関与を持つ者が出てくるのである.政策実施における政治の関与においては,首長は行政,議会は立法という機関分立ではなく,個別具体,詳細な事象に対しては議員が担う役割が大きくなるといえよう.そう考えれば,先行研究の理解とも接合しつつ,実施という異なる側面に拡張した形で,首長と議会の役割を理解することができる.

 もう一つの可能性は,この政策領域が合意争点ではなく,利害や意見の対立が存在することが,首長や議員の行動に影響しているということである.市民の意見が分かれていることは,本書の市民意識の分析からも明らかである.したがって,反発を買う,あるいは敵を増やす可能性があるために,首長はこの問題への関与を回避しようとするとも考えられる.他方で議員の中には,景観を重視する市民の立場に沿って行動する議員もいれば,屋外広告事業者の立場に立って厳しい規制には消極的な議員もいるだろう.

 本書が明らかにしたように,推進する側の議員が働きかけることで,停滞していた実施が進むようになる自治体は確かにある.しかしそれは事実の一部だろう.残る多くの自治体,すなわち実施に消極的なところでは,事業者側に立つ議員は行動をとる必要がない.こうした議員の影響力は潜在的な状態にあり,顕在化していない.本書の事例分析はすべてが成功事例であることから,こうした側面が明らかになることはなく,また計量分析においても,潜在的な影響力は析出されなかったとも考えられそうである.

 最後に第三の疑問は,屋外広告物規制を超えて,どこまでこの議論が一般化できるのか.特殊な要因があるとすれば何なのかというものである.これは,本書が一つの政策領域に絞ったことへの批判ではない.筆者もいうとおり,一つに絞ることでこそ,これだけの分析が可能になった.ただ,本書が扱った政策領域を他の政策領域と比べて理解することは,本書が明らかにしたことの意味をよりよく理解するためにも役立つはずである.

 屋外広告物の規制の歴史は長いが,それは責任の押し付け合いの歴史だった.戦後に限っても1949年の屋外広告物法以来の歴史があるが,法律は条例の基準を定めるのみで,都道府県の固有事務に位置づけられる.それゆえ補助金もなく,手数料収入があるため交付税措置もされない.指定都市や中核市の他,事務移管により実施を担う市区町村も多いが,都道府県に押しつけられたという声も強い.つまり歴史は長いが,実効性に欠ける規制なのである.規制対象の数は多く把握は難しい.規制の対象者である事業者の反発は強く,一般市民の支持は弱い.実施の悪条件がそろった政策領域とすら言える.

 こうした悪条件を考えると,行政組織に事態の改善を求めるのはやや酷でもある.筆者は実証分析に徹しつつも,いくつかの改善方向の提言を行っている.一つは,申請に際する手数料ではなく,公共空間の使用料に位置づけを変えるというものである.もう一つは,実施に必要な人員が確保されず,ルールの公正な実施もできていない実態を,議会,さらには市民に示し,是非を問うべきという提言である.いずれも正攻法であり,提言そのものには評者も異論はない.しかし同時に,その実現可能性は低いとも思う.

 屋外広告物は,土地や建物を所有,利用する者の自由と,それが全体の景観を損ねるという外部不経済,あるいは統一的な景観という公共財の毀損との間のトレードオフを伴う.そして,土地所有者,利用者の自由を重視するのは,日本の土地政策や都市計画政策全般の特徴でもある.そうした中で,公共空間の使用料という考えや,公共空間の質の維持のために人と金を割くことが受け入れられるとは考えにくい.

 根本的な価値と利益の調整を政治が担わないまま,行政にその実施が委ねられる.ゆえに,その実施における課題は,最後は政治による解決なくしては難しい.本書が描いたのは,根本的な政治の不在が行政への負担を増している,そうした日本の政策実施の典型例ともいえるだろう.

4.       最後に

 二点の付言をお許しいただきたい.かつて評者は,規制における行政組織と規制対象者のゲーム理論的分析を行った.いつか実証に結びつけたいと思いながらも自分の手には余り放置していた.本書がそれを拾い出してくれたことには,感謝の念しかない.もう一つは賛辞である.筆者の研究書として本書は三冊目となるが,いずれもが行政を理解しようとする者すべてが読むべき業績である.筆者が優れた研究をコンスタントに生み出しつづけていることには,心からの賞賛に値する.個人的感謝と誰もが認めることゆえ蛇足ではあるが,評者の率直な二つの思いを最後に述べて,この書評を閉じたい.


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