現代日本社会と公共政策大学院

1        公共政策大学院と社会

 日本における公共政策大学院の歩みも10年を超えた.私たち一人一人が社会のなかの存在であるように,大学院といった教育機関もまた,社会のなかの存在である.日本社会のあり方に大きく影響されると同時に,その存在が社会を多少なりとも変える.

 そこで本稿では,公共政策大学院がいかなる社会の下に生まれてきたのか.この10年で社会はどのように変容し,そのことが公共政策大学院にどのような影響を与えるのか.こういった問題について,考えてみたい.

 そもそも,公共政策大学院は何のためにつくられたのか.公共政策の策定や実施において,知識や情報の果たす役割が大きくなったことに対応できる人材を養成するため,というのがひとまずの答えだろう.

 では,公共政策大学院で修得することが求められる知識や情報とはいかなるものだろうか.抽象的に論じてもわかりにくいだろうから,少し具体的に考えてみよう.

2        ごみ収集と生活保護

 ここで具体例として取りあげるのは,二人の行政学者の研究である.一つは,藤井誠一郎『ごみ収集という仕事』(コモンズ,2018年).もう一つは,関智弘の一連の論文,「保護率の行政学」(『公共政策研究』12巻,2012年),「組織人としてのケースワーカー」(『年報行政研究』49号,2014年),「生活保護行政と自殺」(『公共選択』66号,2016年)である.

 『ごみ収集という仕事』は,行政学者が新宿区役所の家庭ごみの収集作業に9ヶ月にわたり従事した経験を元に,廃棄物収集の現状としくみを解き明かしたものである.参与観察の手法を中心としつつ,制度についての解説などを組み合わせることで,収集作業の過酷さ,作業員たちの考え,収集作業におけるノウハウやマネジメントのしくみ,作業員たちの雇用形態や組織形態,収集から最終処分に至る一連のプロセス,そして,一般市民や事業者など社会のあり方が論じられる.

 これに対して関の一連の論文は,行政学者が計量分析を駆使して,生活保護に働く政治・行政の作用を明らかにするとともに,生活保護の政策効果,具体的には自殺減少に寄与するのかを分析している.そこでは,生活保護が首長や議会,厚生労働省と自治体の行政機構といった種々の政治・行政アクターの意思決定の束として成り立っていること,生活保護の決定に直接的に関わるケースワーカーは,福祉の専門職としての性格よりも,一般行政職の一部として機能していること,生活保護の申請を受付前の段階で抑制する,いわゆる水際作戦は自殺率の上昇につながることが示される.

 このように二つは,方法も対象も全く異なる研究である.しかしこの両者に,共通する要素を見出すこともできる.

 それは,ストリートレベル官僚(第一線職員)という要素である.第一線職員とは,教員,警察官などを代表例とするもので,管理者の目の届きにくいところで業務を行うとともに,多様な業務を担うことから,エネルギーや時間を振り分ける裁量が大きい.また,顧客に直接接することから,顧客に対する影響力を持ちやすく,逆に顧客から影響されることも多い存在である.

 アメリカの第一線職員論において,ケースワーカーはその代表例として扱われてきた.管理者から離れたところで,顧客と直接接するというタスクの物理的環境の特徴によく当てはまるからだ.逆に,ごみ収集の作業員が第一線職員論で扱われることはなかった.機械的な単純作業だと捉えられてきたからである.

 しかし,日本においては,ごみ収集の作業員は第一線職員の性格を持ち,逆に,ケースワーカーはその性格が弱いということを,二つの研究はそれぞれ示している.

 ごみ収集の作業員は,マナーを守らないごみの出し手に対して,許容すべきか拒絶すべきか,それにより改善を図れるのか,街の衛生・美観はどうなるのかを考えながら,収集時に判断を行い,対応策をとる.また,資源の回収や,焼却炉などその後の処理プロセスへかける負担を減らすための作業など複合的な業務に携わっている.

 他方で,日本のケースワーカーは,ジェネラリストとして多くの職場を経験するという人事政策の中に組み込まれた一つの職場であり,専門職として育成されるわけではない.そのことが,自治体の財政状況や生活保護受給者以外の市民の感情などへの応答性の高さなどにも結びつく.他方で,福祉の専門家としての踏み込んだ判断などは弱いということにも結びつく.

 このように,二つの研究は,ストリートレベル官僚論というアメリカの議論が,日本の行政の実態を分析する上で,どのように生かされるかをよく示しているのである.

 さて,二つの研究は,公共政策大学院において求められる知識・情報とどのような関係にあるのか.

 『ごみ収集という仕事』は,公共政策を成り立たせている人々の行動や考え,またそれを支える制度の実質について,現場での経験から抽出された知識や情報である.経験に立脚しつつ,それを抽象化,体系化した実践知と呼ばれるものがそこにはある.

 他方,関の生活保護研究が示しているのは,公共政策が社会にいかなる効果を与えるのか,公共政策が社会をどう変えるのかを定量的に把握するとともに,そうした効果を生み出す公共政策を左右する要因をそれぞれ厳密に捉えながら,全体として理解することである.これを可能としているのは,公共政策の効果と原因の双方を対象とした統計分析である.

 つまり,公共政策大学院が提供すべき知識・情報とは,一つには実践知であり,もう一つには政策の効果と原因についての科学なのである.

3        公共政策大学院の二つの前提とその隘路

 ここまで,公共政策大学院が提供すべき知識と情報について,具体例を示してきた.その上で,冒頭に示した命題,すなわち,公共政策大学院は,公共政策の策定や実施において知識や情報の果たす役割が大きくなったことに対応できる人材を養成するためにつくられたという命題を掘り下げてみよう.

 この命題の前提となっているのは,二つの認識である.一つは,公共政策が知識や情報を必要とするという認識である.もう一つは,そのような知識・情報を,専門職大学院という新しい形の大学院により提供できるという認識である.

 第一の認識,すなわち,より多くの情報や知識が必要となるという認識は,公務部門に限られるものではなく,社会全体に広がるものであった.そもそも公共政策大学院とは大学院重点化の一部であった.公共政策大学院よりも少し早く,1990年代半ばに始まった大学院重点化は,特定の領域に限ることなく,大学院への進学者を増大させようとした.

 それから20年間の変化は大きい.すべての領域の情報や知識を拡大することが現代社会では求められるという認識は,むしろ弱くなった.考えてみれば,もともと,本当にすべての領域で必要なのかを吟味したわけでもない.したがって,まずは漠然と知識・情報の必要性が高まると考えた上で,徐々に分野ごとの必要性が絞られていったという方が正確かも知れない.

 そうした中で,自然科学や工学分野の必要性は依然として変わらないが,人文学の領域には疑問が多く提示され,社会科学の領域に対しても疑問の声は強い.

 それは一面では,グローバル化の影響による素朴な競争観であろう.他国との競争の道具となり得るのが自然科学・工学の知識・情報であるのに対し,社会についての知識や情報が,それに寄与するとは考えられていない.

 しかし他面では,人文・社会科学のあり方が現代社会で必要とされる知識や社会を生み出せていないという考えも背景にあろう.

 つぎに,命題の前提となっている第二の認識に移ろう.それは,専門職大学院という形により,実務に必要とされる高度な知識や情報の提供が可能だという認識であった.研究者養成のみを目的としてきた,従来の社会科学系大学院のあり方を変えられるという考えともいえる.

 具体的には,つぎの二点がその柱となる.一つは,実務との交流である.実務の世界とアカデミックの世界を交流させることで,実務経験を考察可能,比較可能,汎用可能な知識へと転換し,執務知識から実践知への転換を実現する.

 もう一つは,現状分析の延長線上に,現状の改善をいかにして図るのかという解決策を提示することである.計量データの分析のようなより定型化された方法により,具体的な事象の解決策を提示していくのである.

 つまり,前者は,学問の側から実務経験を抽象化,体系化する試みである.後者は,分析の対象,いわゆる従属変数として政策効果を重視するという点である.第2節で取りあげた二つの研究がそれぞれの具体例である.

 しかし実際には,どちらも現在の日本の大学では実現は多くない.前者を実現するには,アカデミックな研究者が実務を知り,考えることが求められる.それをする余裕は現在の研究者にはない.後者についても,従属変数として何を選ぶかは,アカデミック内部の論理で決まるところが大きい.実務で要請される従属変数を選択する余裕はそこにはない.研究者の競争が激しくなり,身分や給与をめぐる業績評価が厳しく導入されればされるほど,こうした傾向は強くなる.

 つまり,アカデミックの世界の状況ゆえに,実務に有益な知識や情報を生み出すことは難しいのが現実である.そのようなアカデミックの状況を生み出した背景にあるのは,社会の側のアカデミックな世界に対する評価の低さである.

4        ポピュリズム時代の公共政策大学院

 社会が学問やより広く知識や情報についてどのように考えるかに問題は帰着するというのは,ある意味当たり前である.しかし,そのあり方は多様であり,それぞれの時代のそれぞれの社会により異なる.

 社会の知識や情報への態度がこの10年ほどの間にどのように変化してきたのかを考える上で,ポピュリズムとの関係は欠かせない.

 ポピュリズムの一つの中心には,「普通の人々」としての我々が,エスタブリッシュメントの手から統治の主導権を奪い返すという動機がある.したがって,知識や情報がエスタブリッシュメントの手に独占されていると考える限り,知識や情報の重要性が社会の中で一層高まることにも否定的となる.それはしばしば,反知性主義と称される.

 つまり,欧米においてポピュリズムと反知性主義が結びつくのは,知識や情報をもつ者が社会を動かしていることを前提とした上で,それが「我々」にとっての不利益になってきたと考えるからである.そこでは,知識や情報が社会を動かすことが疑われているわけではない.少なくとも,確固とした知性主義が存在しているからこそ,それへの反発が生じるのである(森本あんり『反知性主義』(新潮社,2015年)).

 日本ではこの意味での反知性主義は存在しないだろう.そもそも,知識や情報を独占するエスタブリッシュメントという存在が信じられていない.人文・社会科学に対する批判とは,この分野では本当に有用な知識や情報を生み出せていないことへの批判である.知識や情報はそれを持っている側の自己利益の追求の道具であるといったようなシニカルな見方がされているわけではない.日本で生じているのは,知識や情報の存在自体への懐疑であり,そうした疑わしい知識や情報が社会を動かすということへの懐疑である.

 このことは,積極的にも,消極的にも捉えることができる.一方では,知識や情報への期待自体が失われているわけではないと解釈できる.現在の日本の大学や知識人という存在が否定されているのであって,知識・情報それ自体への否定ではないと理解できる.

 しかし他方では,担い手の問題ではなく,知識や情報がおよそ社会のあり方を変え,それを改善していく上で有効な道具であるという認識自体が失われているという理解も可能である.

 前者であるならば,大学や知識・情報の担い手の改善により事態が改善する可能性もある.しかし後者であれば,事態は深刻であり,改善は容易ではない.

 公共政策大学院が置かれている現代日本社会とは,このような社会である.それが生み出された10年ほど前に比べて,向かい風が強まっていることは間違いない.それをうまく利用して,追い風へと反転させることができるかどうかは,公共政策大学院のあり方次第であると同時に,日本社会全体の問題であるだろう.


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