場としての地方議会

 「私たちが建物をつくる。そして、建物が私たちをつくる。」

 発言の主は、ウィンストン・チャーチル。ドイツ軍の爆撃を受け焼け落ちた下院の議事堂を、1943年に再建する際の発言である。

 再建にあたっては、他国で増えていた半円形の議席配置への変更も検討された。しかし、チャーチルは、与野党が対座する既存の配置を維持するよう主張する。ビッグベンとビクトリアタワーを両端に、テムズ川に沿って細長く伸びる議事堂の形状が、対座型の配置をもたらしたのだが、それは二大政党が与野党として対峙する議会のあり方に適合していた。そのことをチャーチルはよくわかっていた。

 さて、皆さんの議会の議場はどのような配置で、どこに位置しているだろうか。

 議場については、国会同様、扇形に議員の席が配置され、それに対して首長・行政部局が対面していることが多いだろう。ただしこれでは、首長・行政部局への質問も議員に向けて話すことになるので、演壇を180度反転し、首長・行政部局と対面する方式としているところもあるだろう。これ以外にも、円形議場としているところなどもいくつかある。他方で、イギリスのような、議員の間での対座方式をとっているところは、恐らくないのではないだろうか。

 では、その議場はどこに位置しているだろうか。独立した議事堂を有しているところもある。しかし、行政庁舎と同じ建物内のフロアーの一部に位置しているところも多いだろう。20の政令指定都市を対象に、少し調べてみたところ、議事堂ないし議会棟が独立した形で設置されているのは、静岡市、広島市、北九州市である。市庁舎と隣接する議会棟となっているのが、仙台市、さいたま市、千葉市、福岡市、熊本市。残る12市は市庁舎内部に議場が位置している。

 これに対して対照的なのは、米国の議事堂である。米国のワシントンD.C.を訪れた誰もが感じるのは、議事堂が街の中心だということであろう。小高い丘の上に議事堂が位置しており、そこからナショナル・モールの緑が続き、ワシントン記念塔がその先に立つ。ホワイトハウスはこの中心線から北側に外れたところに、そして連邦最高裁は、議事堂から丘を下った裏手に位置している。

 州議事堂の多くも、連邦議会の議事堂と同様の形態をとるものが多い。筆者は米国への留学時代、各地を車で旅したが、その際、州都になるべく立ち寄った。経済的な中心とは別に政治の中心地を設けるという発想が、国土全体だけでなく州ごとにも適用されていることに興味を持ったのだ。街が大きくないだけに、平野を走って行く中から次第に街の稜線が現れ、街中に入りしばらくすると、議事堂の姿が浮かぶことも多かった。

 実際に訪れて意外だったのは、州議事堂は議会だけの建物ではないということだ。多くの議事堂には知事室も設けられており、行政機構の事務所が入っていることも多い。さらには裁判所すら同じ建物に入っている州も少なくない。さらに議事堂の建物の形も実は色々であり、ニューヨーク州はパリ市庁舎を模した瀟洒なものだし、イリノイやネブラスカはタワー型、ノースダコタは高層ビルである。

 ワシントンD.C.だけを見ると、さすが三権分立を徹底している国だけあって、そのことは建物の配置にも現れている。これに対して日本の地方自治体は、いかにも議会と首長の関係を反映するかのような建物の配置となっている、などと言ってしまいそうである。しかし、アメリカでも州や地方自治体も見ていけば、日本と事情が大きく異なるわけでもない。

 建物が分かれていることが、機関としての自律性を保障するわけではない。あるいは建物が威容を誇ることが、その機関としての重要性を形にしているという時代でもない。むしろ現在、求められるのは、行政部局との関係だけではなく、市民との関係も含め、議会自身の意思決定の場として議場のあり方を考えることだろう。開かれた議会を形にするにはどういった議場が望ましいのか、あるいは政党や会派にいかなる役割を持たせ、どのように議論を進めるかを踏まえて、どのような議場を設けるのかを考えるべきである。

 さらに、新型コロナウィルス感染症の経験は、人と人が集うことのリスクと意義を改めて考え直すことを私たちに迫っている。オンラインでも可能となるコミュニケーションとはどのようなものか、むしろオンラインの方が望ましいものはどのようなものか。逆に、対面でなければ不可能なコミュニケーションや意思決定とは、どのようなものなのか。

 地方議会も例外ではない。今後の議場のあり方は、オンラインによるコミュニケーションや意思決定というものも含めて、考えていくべきものだろう。議会とは、自分たちがどのような形で意思決定をしていくのか、そのあり方を自分たちで決めていける存在である。自分たちがどのような形で意思決定を行おうとするのか、それには、どのような場・手段がふさわしいのか。チャーチルの言葉は、現在にも生きている。


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