『現代日本の官僚制』のあとがきのあとがき

 「学問のあり方は常に問い直されるものであり,いかなる言語でいかなる媒体で成果を示すべきかには多様な意見があろう.ただ,筆者は,政治学という学問において,その国の言語で,学術雑誌よりも広い読者に届く形で成果を出すことには意義があると信じている.そして,書物という尺があって初めて可能となる思索の幅や深さがあることも信じている.」
 昨年末に上梓した拙著『現代日本の官僚制』(以下,本書)の「あとがき」において,私はこのように述べた.しかしこれはいかにも説明不十分である.なぜ政治学(以下,本稿では政治学のうち現代政治分析を念頭におく)において,研究成果を日本語の書籍によって公刊することに意味があるのだろうか.この問いに答えるためには,現代日本の政治学において,学問のあり方はいかなる様相を見せているのかを考えねばならない.

●ジャーナル・コミュニティとモノグラフ・コミュニティ
 手がかりとして,長谷川一の示したジャーナル(学術雑誌)・コミュニティとモノグラフ(学術研究書)・コミュニティの対比から考えていこう(長谷川一『出版と知のメディア論』みすず書房,2003年).
 古くから,原典に対する注釈の積み重ねによって学問は進展してきた.書籍の中に原典と注釈の双方を収めたのがモノグラフの原型といえる.その分量の大きさを生かして,まとまりのある記述を行うことで,一定程度,自己完結的な存在となるのがその一つの特徴である.もう一つの特徴は,商業出版と共通の流通形態をとることで,読み手が専門家に限定されない開かれた性格を備えることである.
 これに対してジャーナルは,17世紀の頃,共有知識となっている原典部分を省略し,新しい知見の部分だけを速報したことが始まりといわれる.共有知識を前提視できるコミュニティの存在がそこにはある.専門家という閉じた読者を対象として速報性を重視することは,科学の姿勢と親和的である.したがって科学化が進んだ学問分野ほど,雑誌論文が研究を公表する基本の形態となる.
 つまり,二つのコミュニティは,単なる媒体の違いではなく,そこにおける知的営みのあり方や想定される読者の違いを含むものなのである.
 さらに,それぞれのコミュニティは,研究や研究者の評価の仕組みと強く結びついている.評価の仕組みは,誰がそれを担うのかという点と,どの時点での評価なのかという点で大きく分けて四つの選択肢がある.ジャーナル・コミュニティの場合,同業者による事前の査読がその仕組みとなってきた.しかし現在では,インターネットに登録することにより,同業者が事後的に評価をする動きも広がっている.これに対して,モノグラフ・コミュニティにおける評価システムは曖昧であった.アメリカの大学出版局においては,雑誌論文と同様に,同業者による事前査読が行われている.しかし,日本を含む他国では編集者による事前評価が中心である.ただし出版点数が多ければ,事後評価に軸足は移る.そして出版部数が多い場合,評価の主体は編集者や同業者以外に広がっていく.
 このように多様な形態をとりうるものの,単純化していえば,ジャーナル・コミュニティもモノグラフ・コミュニティも,同業者が事前に評価することで質の保証をする形態が基本となってきた.

●ジャーナル・コミュニティ化する政治学とそれへの留保
 政治学においても,とりわけ第二次大戦後のアメリカを筆頭に,科学化の動きは大きく進んだ.かつてはモノグラフが業績の中心と考えられていたが,現在ではジャーナルに掲載することが研究成果の公表であるという考えが強くなっている.社会科学の諸分野のなかで,経済学が最もそうした傾向が強いが,近年の政治学はそれに近づきつつある.日本の政治学もその例外ではない.筆者も,科学化の傾向に異を唱えるつもりはない.政治現象のように各人の立場や考え方や利害の影響を受けやすいものの場合,分析の客観性をいくら求めても求めすぎることはないだろう.
 しかし,こうも思う.政治学がジャーナル・コミュニティだけになってはならないのではないかと.なぜならば,一つには,政治学とは政治という私たちの選択による可塑性の高い営みを対象とする学問であり,それゆえ,その研究成果の受け手は社会を構成する人々であるべきだからである.もう一つには,政治に関わる人々の多さから,政治に影響を与える要素は幅広く,一定のテーマを扱うためには,相当程度の分量での記述が必要になるからである.
 こうした特徴は,経済学とは異なる.市場のメカニズムにおいて個々の人間や企業は価格を動かせない.だからこそ,私たちは市場の外部にたって市場を観察可能である.他方で,社会学はその逆に位置する.私たち自身が社会の一部である.そして社会を作り出すのもまたその社会である.だからこそ,常識から離れつつ戻ってくるといった独特の「距離感」が社会学には求められる(佐藤俊樹『社会学の方法』ミネルヴァ書房,2011年).そして政治学は,その中間に位置する.私たちと政治エリートを切り離して後者だけを観察するならば,外部からの観察は可能である.しかし私たちも時として政治の主体となるし,政治エリートも私たちの一部から生まれている.そして政治を作り出すのも政治であるが,それはより明確な手続きや制度構築による分,社会以上に政治の方がそのあり方を意図的に変えやすい.こうした対象を扱う学問が,ジャーナル・コミュニティという形をとって,逆に言えば社会からの自律性を確保できるとも,すべきとも思えない.
 そしてまた,政治が私たちの作り出すものであることが,政治を動かす要因を多様化する.その意味で政治とは見通しがききにくく広がりのある,まるで樹海のような存在である.個々の要素としていえば,木々や岩石や土壌や動物に分解されるとしても,そのそれぞれを取り上げるだけでは樹海を描くことは難しい.そのいくつかの組み合わせを描かねばならない.政治も同じであり,その一部の要素だけでは政治は描けない.たとえば,本書の対象である官僚制を,官僚制単体として描いたところで,その活動も機能もたいして理解できない.一つ一つの構成要素とその組み合わせを描くために,政治学には一定の分量の記述が必要なのである.

●二つのコミュニティの両立性
 このような政治学におけるモノグラフ・コミュニティの重要性を説く議論に対しては,しかし,いくつかの疑問が思い浮かぶだろう.そのうち,ここでは次の二つをとりあげる.第一に,両者は二律背反とは限らず,共存できるのではないか.第二に,そもそも日本の政治学において,モノグラフ・コミュニティは本当に存在していたのか.
 ジャーナル・コミュニティとモノグラフ・コミュニティは共存すればよいのではないか.これは一見したところ異論のない主張に思える.しかし実際にはそう簡単ではない.コミュニティの中核に位置する書き手,すなわち研究者からすれば,ジャーナルとモノグラフのどちらを公表の場として選ぶかは,トレードオフの関係になる.時間と労力に限りがある以上,どちらかをとればもう一方はとれない.その学問分野を科学として位置づけるならば,既存の研究の蓄積の上に新たな知見をできるだけ早く公表することが重視される.そこでは研究はジグソーパズルの様相を見せる.研究対象は細かく分解され,すでに埋められたピースもいくつかある.科学とは,すでに埋まっているピースに隣接するピースを見出すことである.そこでは,まだ埋まっていないピース同士を組み合わせてみたり,別のジグソーパズルを眺めてみたりすることは求められていない.それらは余計なこと,無駄なことである.
 本来,異なる方向性を持っているにもかかわらず,両者を両立させようとすると,形式的な対応がとられる.そこでは書籍は単なる複数の論文の束,あるいは長い論文であると理解される.それは博士論文の形態にも及ぶ.科学化が進むほど,博士論文はジャーナルに掲載された複数の論文を束ねたものとなる.そこには共著の論文も含まれる.日本の政治学においては,移行期であるため,そうした博士論文を認めるところは,まだ少ないだろうが,早晩,多数派となろう.博士論文はその学問がどのように再生産をしているのかを示すものである.博士号の早期取得の圧力なども合わせ考えれば,ジャーナル・コミュニティへの収斂は止めがたいであろう.

●日本の政治学はモノグラフ・コミュニティだったのか
 つぎの疑問は,日本の政治学(さらには人文社会科学一般)において,研究者による事前評価に基づき公表可能性が判断されるという意味でのモノグラフ・コミュニティがそもそもあったのかというものである.これも長谷川が指摘しているとおり,日本で出版されてきた「人文書」は,教養主義と結びついた「硬い本」であり,人格修養に資するものである.ゆえに「最近の若者」が本を読まなくなったことが嘆かれる.こうした「人文書」を支えてきたのは,出版社の編集者による企画である.現在でも,持ち込み原稿よりも自らの企画の方が,よい本ができるという編集者の自負が存在する(橘宗吾『学術書の編集者』慶應義塾大学出版会,2016年,59頁)のは,これまでの蓄積があってこそである.
 この30年間,日本における現代政治学は,こうした人文書の伝統から離れることで,自らの自律性を高めようとしてきた.1987年に創刊された『レヴァイアサン』誌はその端的な表現である.それは一方では,同業者による査読に基づく論文の掲載を,日本の政治学に根付かせようとした.それ以降,政治学関連の学会誌が次々と査読を定着させていったことに示されるよう,その試みは成功した.他方で同時に,こちらはわかりにくい変革だが,編集者主導の人文書とは異なるモノグラフ・コミュニティを形成しようという試みも内包されていたのではないか.書評を通じて事後的に研究者による評価を可視化していくことは,編集者の評価基準とも,世の中の評価基準とも別に,政治学の研究者としての評価基準を自律させていく意味があった.事前ではなく事後評価であるという違いはあるが,それはモノグラフ・コミュニティの確立も志向するものであった.少なくとも筆者はそうした理解の下に,2011年以来現在まで,同誌の書評委員を務めている.
 しかし,その実感としては,日本の政治学におけるモノグラフ・コミュニティの成立という課題は達成できていない.そもそも,ジャーナル・コミュニティとモノグラフ・コミュニティの何が共有の部分であり,何が違う部分なのか,その両者をどのように育てていくべきなのかが十分に意識され,検討されているとは思えない.モノグラフにはモノグラフの評価基準があり,それを書評を通じて自分たちが作っていくという意識は学界に共有されていない.科学化の進展とジャーナル論文の掲載を重視する姿勢が強まることで,モノグラフの書き手も読み手も減っているように見える.二ヶ月に一度程度開かれる書評委員会において検討の俎上に載せる対象は,この近年,徐々に減っている.
 学問の自律性を損ねる外部の存在は色々とあるだろう.しかし,そもそも守るべき自律性が何であるのか,自分たちがそれを不断に問い直すことがなければ,自律性を維持する意味もない.1年単位で研究業績の公表を求められ,それがアカウンタビリティを果たすことであるという強い社会的・政策的要請の中で,モノグラフ・コミュニティは意識的な努力なしに維持不可能であろう.

●それでも残るモノグラフの意義
 このように,そもそも二つのコミュニティの両立は難しく,さらにモノグラフ・コミュニティが成立したことがないところに,ジャーナル・コミュニティ化が進むのであれば,日本の政治学におけるモノグラフ・コミュニティの今後の存立可能性は乏しいといわざるを得ない.
 しかしそれでも,現代政治を学術的に研究する上で,ピースをはめていく作業とは別に,そもそもどのようなパズルを解こうとするのかを問い直すことや,分解とは別に統合することには意味がある.本書で言えば,日本の官僚制について取り上げるべき論点は,既存の現代政治学のピースとは必ずしも隣接していなかった.また,既存の埋まったピースから日本政治を見るのではなく,現在の日本の政治を官僚制の視点から見たときに見えてくるものを集めていくという作業は雑誌論文では行われない作業であった.その上で,分析の手法や手続きについては,ジャーナル論文と同様の形で進めることで執筆を進めた.現代日本政治に関心を持ちうる広い読者には,フォーマルモデルや計量分析を用いることに拒否感を持つ者が多いことを承知しつつ,そこは譲らなかった.一方には同業の研究者の,他方ではジャーナリストや公務員をはじめとする広い読者の目を意識しつつ,自分が描きたい世界を十分な分量の中で描いていくことは,苦しくも楽しい仕事だった.
 こうした意味で,本書は筆者なりのモノグラフ執筆の試みであった.現代日本の官僚制が政権や政党政治,さらに社会に対してどのような自律性を備えているのか,それを支える官僚制の専門性およびその根底にある官僚制の技能とは何か.こうした問題を扱った本書の執筆は,同時に,現代日本政治を扱う学問の自律性について問い直す機会でもあったのだ.


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